日本の地域コミュニティが衰退した経緯と再生への道

地域コミュニティとは、農村や地方都市における住民の相互扶助、伝統的な行事、自治組織(村落共同体、町内会など)を基盤とした社会構造を指します。
日本の歴史において、地域コミュニティの衰退が著しく進行した時期は、戦後の高度経済成長期(1955年~1973年頃)が最も顕著ですが、GHQ(連合国最高司令官総司令部)の占領政策(1945年~1952年)が、後の日本の社会的・経済的変化の土壌を形成した要素として大きく機能しました。
占領政策は民主化、非軍事化を主目的とし、農地改革、経済民主化、教育改革など多岐にわたりましたが、これらが地域コミュニティ、特に農村部の共同体の構造大きな変化を与えることになりました。

農業の衰退

(1) 農地改革(1946~1950年)

GHQ

戦前の日本に多く存在していた小作農は、地主と小作契約を結び、土地を借りて耕作する代わりに小作料(現物または現金)を支払い、収穫の一部を自己消費や市場販売に充てていました。また、一部の小作農は養蚕、工芸品製作などの副業を持ちながら生計を立てていました。
日本の小作農は自由市民であり、土地と地主に縛られた半奴隷状態だったロシアの農奴とは根本的に異なるものでしたが、戦後、GHQ主導により民主化、経済的平等化を理念として実施された農地改革は、地主制度を解体し、小作農に農地を分配するものでした。

農地改革は短期的にはコミュニティの安定に寄与しましたが、地主層の没落により農村の指導的役割(例:祭事の資金提供、用水管理の調整)が失われました。また、小規模農家が増加し、これらの農家は機械化や効率化が難しく生産性が低かったため農村部は経済的に脆弱な地域になっていきました。

小規模農家中心の構造が固定化され、大規模農業や企業的農業の発展が阻害されたことによって、欧米の大規模農場に比べて日本の農業はコスト高となり、貿易自由化により輸入農産物に押されることとなりました。


(2) 食の欧米化と小麦輸入の推進

小麦農場

GHQは日本人の食文化を欧米化する目的で、いくつかの施策を行いました。
戦後の食糧不足を背景に、アメリカから提供された小麦粉や脱脂粉乳を活用し、学校給食にパン食と牛乳が導入されました。
また、キッチンカーを活用して全国を巡回し、主婦層を対象に小麦粉を使った料理(パン、ホットケーキ、揚げ物など)の調理法を指導しました。これにより、家庭での小麦製品の使用が広まり、米が中心だった日本の食卓に変化が生じました。
1955年の日米余剰農産物協定により、アメリカの余剰小麦を日本が受け入れることが決定され、小麦製品の消費がさらに拡大しました。

増え続ける小麦輸入は国内の食糧生産を圧迫し、農村経済は脆弱化。経済的基盤の弱体化がコミュニティの自立性を損なうことになりました。
米消費量の減少という食文化の変化は、米生産を基盤とする農村の文化的アイデンティティを弱め、収穫祭などの伝統行事の意義低下につながりました。



(3) 都市機能の拡大と労働移動

GHQは財閥解体を実行し、労働組合法の制定を後押ししました。これにより、都市部の工業・サービス業が活性化し、雇用機会が拡大しました。
このことが農村の若者を都市部へ引きつけることになり、農村からの人口流出が始まりました。
さらに、GHQの教育改革により、農村の子供が都市志向の教育を受けるようになったことも、若者の地域への帰属意識が薄れる要因となりました。
農村の労働力不足は、伝統的な田植え、収穫、祭事準備などの共同作業の維持を困難にし、コミュニティの機能低下を招きました。

コミュニティ再生への道

地域コミュニティの復興のためには、人口流入策、経済基盤の強化、インフラ改善などの施策が求められます。
GHQの政策が衰退の素地を作った歴史を踏まえ、中央依存ではなく地域主導の再生が求められます。
民間主導の施策としては、コミュニティハブの構築があげられます。

古民家カフェ

(1) 民間運営の交流拠点づくり

空き家や空き店舗、廃校を改修し、移住者のための一般住居のほか、シェアハウスやコワーキングスペース、カフェなどに活用。地域の交流拠点づくりを行ないます。シェアスペースは、交流と経済活動の両方を促進し、地域のハブとして機能する可能性が期待されます。


(2) コミュニティ再生プロジェクトリーダーの養成

NPOが住民を巻き込み、ボランティアの組織化、企業との協賛を進めながら、空き家改修、子育て支援、高齢者ケアなどを実施していくプロジェクトリーダーを養成します。



(3) 文化イベント

地域の歴史や文化を学ぶワークショップや、子供向けの自然体験教室などを企画し、地域への愛着醸成、若者のUターン意欲向上、観光資源の強化を図ります。

(編集 やしろたかひろ)